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会長の独り言

独り言一覧

「第一回」

 天井を見上げると、まるで蓮根の切り口のように、一面小型爆弾の炸裂による穴穴、その穴から青い空が見られ、太陽の光が差し込んでいる。そこはかって東洋一を誇った尼崎第二火力発電所の、主タービン室である。昭和二十二年敗戦の混乱が少し落ち着き日本復興への動きが始まり、どのような日本となるのか、どのようにして立て直すのか手探りの中でみんなの思いが強くなってきたところである。
 その廃墟ともいうべき中で、黙々と働いている数十人の人たち、ちょうどお昼時、彼らはビール瓶の中に入れた水を飲み、新聞紙にくるんだ薩摩芋を頬張っていた。
 そのころ、大阪日本橋のジャンク屋で鉱石ラジオのセットを買い、米軍のジャズ放送を聴いていた少年は、この姿に大きな感銘を受け、将来の仕事は電気関係を選び、また新たに設置する設備は、保守、保全がさらに大切だと知らされた一瞬である。


「第二回(「宇治川の発電所群)」

 西に比叡、比良の山並み、また北には賤ヶ岳、東には鈴鹿山脈のの水を集めた琵琶湖は
瀬田の唐橋の下をゆっくりと流れ下ってゆく。川の名も滋賀県では瀬田川、喜撰法師で名高い喜撰山付近では京都府で、宇治川、さらに流れて大阪府との境付近で、木津川、桂川を会わせて淀川となり大阪湾に注ぐ。その全長は75Km程である。
 京都府の山峡はV字形の形状をなし急流である。大正のはじめ宇治川電気会社はここに3つの発電所を建設した。大正2年に完成の宇治発電所は、瀬田川の洗堰の上流から取水する水路式の発電所で、今もその原型をとどめている。またその上流に志津川ダムを建設し、ダム水路式の志津川発電所、更にそのダムの余剰水を利用した大峰発電所がつくられた。
 この川筋は、手軽なハイキングコースとして、四季を通じて、そこに集まるハイカーは多かった。その途中にある3つの発電所は、ハイキングの途中での見学コースになっており、誰でも訪れれば、運転員の方が気さくに案内をしてくれたものである。
 宇治発電所は芝浦製作所製、横型ペルトン水車、志津川発電所は、アメリカWH社製
縦型フランシス水車、大峰発電所はドイツシーメンス社製の機器が使用されていた。
 大峰発電所の大理石の配電盤は、深みのある青色で、そこにいかにもドイツ製という器具が取り付けられていた。志津川はいかにもアメリカ的というか大雑把な形容、また宇治発電所のいかにも日本製と繊細な作り、それぞれの発電所が、それぞれの唸り音をたてながら40年間運転を続けている姿は、圧巻の一言であった。
 宇治発電所はリニューアルされて現在も運転を続けているが、志津川、大峰発電所はその役目を終え、天瀬発電所と、揚水発電所の喜撰山発電所に後を託している。

「第三回」

 「木曽川に新しい発電所が出来たので見学に行こう」と誘われた。
 木曽川は長野県南部の、鉢盛山に源を持ち、木曽谷で有名な渓谷を流れ落ち、今渡で飛騨川と、また下流では長良川、揖斐川をあわせて伊勢湾に注ぐ、我が国でも有数の大河である。
 木曽川は大正年代から発電所の開発が盛んで、読書発電所、大井発電所などが運転をしていた。現代では1水系に32の発電所群、出力100万KWを有している。
 丸山ダムは発電と、洪水対策の多目的ダムであり、戦後の産業復興とともに電力需要が増えた為のピンチヒッターとして、2年半の工期で完成されたものである。
 見学の時は発電を開始した直後であり、まだダム上部は工事中であった。2年半という短工期で運転にこぎ着けたということは、トロッコと人海戦術しか知らなかったものにとっては、上空に張られたワイヤークレーンと、巨大なホッパーにまず目を奪われ、案内された骨材処理設備、パッチャープラント等はいままでの土木工事の観念を、根本的に変えるものであった。セメント、砂、砂利、水が自動的に計量され、撹拌されてホッパーの中にどーんと落ちる。今ではどこにでもある生コンのプラント風景であるが、戦後に造られた多くの巨大ダムの原型がここから始まったとも言える。
今丸山ダムはその下流にさらに大きなダムを造る計画とか。戦後すぐに作られた歴史的なダムは湖底に沈む運命にある。





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